原発そのものの話ではないのですが、気になったことがあったので書き留めておきます。
先日、この本を読んで、こんな感想を書きました。
塩見鮮一郎「異形にされた人たち」 (natsumikanのおぼえがき)
いわゆる「被差別部落」に関しての筆者の「気がついたこと」が集められています。
差別そのものに関しての主義主張はなく、そのなりたちや実在の仕方についての考察です。
子供の頃から道徳の授業などで、通りいっぺんのことはわかっているつもりだったのだけど、大人になってから読むと、より具体的な感触を伴って、グサグサくるものだなぁと思った。
私はこの本で、あらためて、「差別」・・・というか、「あの人達は、あの地域は、私たちとは違う。私たちはあそこにはいないから安心だ」みたいな肌感覚は、単なる個人の感情や考え方だけの転換だけで解決できる話ではないのだ、と強く感じました。
とある場所に住み、とある仕事をしているといった、生活や生き方そのものをひっくるめての話であり、一朝一夕に解消できるもんではない。ひとりやふたりがどうこう言ってどうにかなるもんじゃない。
で、それで今の福島県やその他の原発立地地域、そこで仕事・生活をしてる人達のことを思いだしたのです。
そんなん今さら気がついたのかよ~とツッコまれそうですが…、
為政者が、民衆を、細かく分け隔てして支配する手法というのは、昔からちっとも変わってないんだなあとすごく合点が言ったのですよ。きっと日本に限らず、古今東西なのでしょうけど。
職業や役割というのを決められると、選択の自由が無い・狭いことに絶望感を感じる一方で、それでもなんらかの社会的な役割を果たしているというプライドを持つことができるもんなんですね。
「あいつらは俺達を低く見てる。・・・でも、あいつらは俺達がいないと○○ができないんだぜ」
こういう、人間ならではの感情をコントロールして、「不平等」な世の中ができあがるのですね。
生活が、地域が、絡んでいるから、カンタンに足を抜けることが出来ない。
社会としても、一部が急に瓦解すると、困ってしまう。
明治維新があって、「四民平等」が宣言されても、単に差別が見えにくくなっただけで何も変わらなかった。かえって、以前は決まっていた仕事がなくなって貧困に窮したらしいです。
徳川幕府の支配方法(というかもっと昔からとも言われているようですが)が、現代でもいろんな遺恨を残していることを思うと、原発にとりまく地域や人のことはどうなるんだろうか、と気が遠くなります。
でも、徳川幕府は300年も続いたけど、原発は、まだ100年もたってないんだよね。
だから、いい方法がきっとある。と思いたい。
・・・さて、ここまで書いて、なにもまとめがないのですけれど・・・
この先、自分がどんなに年をとっても「私が知らないことが、世の中には山ほどある」という意識を持ち続けなければ、ということだけはハッキリ決めました。
あぁ、気がつくのが遅いこと。私の歩みは遅々たる歩みですわ。
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